SS0007

無題-作:◆91wbDksrrE ■6.67kb


「なにやら騒がしいのう……もう夜更けじゃと言うに」
 彼女が寝ぼけ眼をこすりながら眼下を見れば、そこには何人もの人が彼女の
寝転ぶ鳥居をくぐっている姿があった。
「……なんじゃ、もう新しい年か。どうりでここの所社務所の連中が忙しそうに
 しとったと思うたわ……ふぁぁああ」
 大きなあくびをしながら、彼女はすっくと鳥居の上に立った。かなりの高さであるが、
その高さに彼女が怖気づく事はなかった。まあ、そもそもその上で体を固定する事も
無く眠りこけていたわけだから、今更怖気づく必要は無いと言えば無い。
 そこは彼女のお気に入りの場所であり、そこにいる事は彼女にとってはむしろ自然
な事であった。
「しかし、相変わらずわしの姿が見える者はおらんようじゃな。ま、じゃからと言って
 何がどうするというわけでもないが」
 そんな彼女の姿を、眼下の群衆は誰ひとりとして見とがめる事が無い。普通、年端
もいかぬ少女が鳥居の上に鎮座していれば、誰かしら騒ぐだろうに、そういった声は
一切上がる事が無い。それどころか、誰も視線すらそちらに向けていない。
 彼女はつまり、そういう存在であった。極々一部の、そういった素養のある人間
以外には、彼女の姿は見えないのだ。ここ何十年か、こうして新しい年と共に、大量の
人間を出迎えるのが彼女の習慣となっていたが、彼女の姿を見咎めた人間はいない。
 今年も、やはりいないようだった。
「お主ら、真摯に祈れよ。さすれば応えてやらんでもないからな」
 誰にともなく、苦笑まじりにつぶやきながら人の流れを視線で追って行く彼女は、
ふと自分を見つめる視線に気づいた。
 ここ何十年か、この神社に参る大量の人間の中に、彼女の存在を目にする素養を
持った者はいなかった――“この神社に参る”人間の中には。
「……相も変わらず、こりぬ奴よのう」
 苦笑を深くしながらその視線の元をみやれば、そこには一人の男がいた。少年と青年
の間にあるような、あどけなさを残しながら、相応に歳を経たその表情は、彼女の事を
心配しているように、不安に歪んでいた。
「……まったく」
 軽くため息を付くと、彼女は飛んだ。跳ぶのではなく、飛んだのだ。
「何が不安じゃ、丈明よ」
「……つねちゃん」
 ここ何十年か、彼女は自分を見る事のできない人の群れを迎え入れ、見送ってきた。
 だが、ここ何年か、その彼女の役務をひっそりと見守る人間がいた。
 それが、彼、伊上丈明である。
「その名で未だに呼んでくれるのは嬉しいが、わしは問うておるのじゃぞ、丈明よ」
「……俺もその内、君の事見えなくなるのかなって思って」
 彼と出会ったのは、彼がまだ間違いなく少年と言える容姿をしていた頃であり、それ
から数年、彼は彼女の事を見守り、時には会話を交わしたりもしていた。彼はそれが
できる素養を持っていた。だが――
「なぜにそう思うのじゃ?」
 問いながら、彼女はその答えを半ば理解していた。
 彼女のような存在を見る素養の持ち主は、純粋な心を持っている子供にこそ多い。
成長し、体も心成長していけば、次第にその素養も失われていく。それが人の常だと、
彼女は知っていた。
 ここ数十年の間は、子供にすら彼女を見る事のできる者は少なくなり、彼は幾年か
ぶりに現れた、その素養を持った人間である。
 だが、そんな彼でも、人の常から逃れる事はできない。
「最近……つねちゃんがフッと見えなくなる時があって……それで……」
「わしが見えぬと不安か?」

「……うん」
「見える者が見えなくなる。それは自然な事じゃ……じゃからな、丈明よ」
 彼女は、笑顔で言った。
「わしが見えるという事に頼るでないぞ。わしは、お主らの心の支えにはなろう。
 じゃが、それはあくまでわしがお主の心の中に居る事で成り立つ。そうでなければ
 ならんのじゃ」
「心の、中……?」
「わしのような存在が、実際に居るという事を知り、実際に存在を確認し、それが
 当たり前になってしまってはいかんのじゃ。わかるか、丈明よ?」
「……よく、わかんないな」
 彼は、困惑しているようだった。青年に近づいたとは言え、まだ少年としての面影
も残している歳だ。突然始まった難しい話に、頭がついていかないのかもしれない。
「わしがおらんようになろうと、動じるでない……つまりは、そういう事じゃ」
「つねちゃん、いなくなっちゃうの?」
「ま、すぐにではなかろうがの。その内、わしの姿はお主には見えんようになる。
 わしの声はお主には聞こえんようになる。わしの体にお主は触れられぬようになる。
 その日はそう遠くなかろうて」
「そ、そんなの……だって……俺……俺……!」
 彼の思いつめたような表情に、彼女の心に――もうずいぶん前にどこかに忘れてきた
と思っていた部分に――チクリと痛みが走った。
「皆まで言うな、丈明よ。お主の想いに、わしは応える事はできん。なんせわしは」
 それでも、彼女は笑みを絶やすこと無く、言った。
「わしは、神様じゃからの」
 笑みを絶やす事なく、されど、痛みもまた絶える事なく。
「神とはなんじゃ?」
「……神は常に人共にある。八百万に宿りしが故。されど、神は見えず。神は聞こえず。
神は触れられず。神に触れるが叶うは、狂(ふ)れた時のみと知れ……」
「覚えておるな。気が狂れるとは、すなわち異界に触れるという事。子は、自然とそれを
 為す。じゃが、歳を経れば触れぬようになる」
「……どうしても、無理なのかな?」
「残念じゃが、な。それが自然な事じゃからのう。……まあ、わしが見えなくなるまでは、
 このように言葉を交わす事もできるじゃろうから、別れがすぐにやってくるというわけでは
 無い。そう気を落とす事もなかろう」
「……でも、いつか来るんだよね」
 彼は、寂しそうな声で言った。
「そうじゃな……来年か、再来年か……もしかすると、明日いなくなるかもしれぬな」
「……明日、って……」
「じゃから、動じるな。心を構えよ。それができぬ男では無いと、そう思ったがの?」
 イタズラめいた笑みで誤魔化してはいたが、彼女の瞳からは今にも涙が溢れそう
だった。いつの頃だっただろうか。神となる前、まだ人であった時、狐の眷属として
祀られるようになる、ずっとずっと前――流し方すら、今の今まで忘れていた涙が、
彼女の瞳に光をたたえ始めていた。
「それに、お主の今の体躯では、わしのこの体には見合うまい。なんじゃったか……
 ろりこん、じゃったかの? 何にせよ変態呼ばわり されてしまうのがオチじゃぞ?
 カハハッ!」
 声に出して笑ってみても、涙は止まりそうになかった。
「まったく、新年のいの一番からするような話ではないわ。さて、丈明よ。お主も
 父の手伝いがあろう。社務所に戻って働くがよい。わしも参拝する者を見守ら
 なければならぬからな」
 そう言って、彼女は再び飛んだ。彼に背を向けて。流れ落ちそうな涙を気取られまいと。
「……つねちゃん」
 彼の、寂しげなつぶやきを、彼女の鋭敏な耳はとらえる。
「……まったく……突然、何を言うかと思えば……そんなもの、いつか来ると
 わかりきっておったろうに……」
 千年近くを生きる間に、別れはいくつも経験してきていた。
 だが、なんど経験しようとも、それに慣れるという事はなさそうだった。
 別れの悲しさにも。
 想われるという事の、嬉しさにも。
「……お主がわしを忘れる事がなければ、それで良い」
 そして、自分が彼を忘れる事がなければ―― 
 まるで自分に言い聞かせるかのように呟きながら、彼女は鳥居の上に
降り立ち、そっと目端をぬぐった――その時。
「つねちゃん!」
 群集が、突然の叫び声にざわめいた。
「俺、ずっと忘れないから! 覚えてるから、つねちゃんの事、忘れないから!」
 群衆から向けられる奇異の視線に動じる事無く、彼は自身の思いのたけを、
精一杯の言葉に込めて、放っていた。まるで、彼女の呟きに応じるかのような、彼女の
想いに応えんとするかのようなその言葉に、
「……うつけが」
 彼女の瞳からは、一筋の光が零れた。

 その日、その辺りには久方ぶりの雪が舞ったという。
 綺麗に光り輝く、どこか物悲しい雪が――

  • 最終更新:2010-10-23 03:21:20

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