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無題-作:[ID] mgnfl21x ■6.27kb


呼び鈴。スリッパ履きで玄関へと向かう気配。安い建てつけの扉を開ける音。
衾障子越しにこぼれてくる明かりの光度が増す。
昼夜問わずに雨戸を立てた和室は俺の終のすみかであり、この家の陰だ。

かしましく話す嫁の明るい声は、さらりとだけ俺のことに触れる。
――おじいちゃんもすっかりボケちゃってね。厳しい人だったけれど、それだけにねえ。

聞こえてはおるんだ。光枝さん、わかっているよ。
俺の躰はうごかない。喋ることもままならない。
意識は始終濁っている、頭のなかをだれかに握り締められているかのように濁っている。
そのだれかが俺の躰を勝手に乗っ取り、出鱈目をやらかしてくれる。思いもよらぬ奇声を発する。
俺は呆然とそれを見ておるより他がないんだ。まことにすまないとは思う。

今ではごく時たま、俺の意識はこうして考えをめぐらせるだけの清明さを取り戻す。
蝋燭のような饐えた俺自身の臭い。それに撒き散らした糞と小便の残滓、そのぬぐいきれぬ臭い。
俺は俺の行状を恥じて清明な時間を過ごす。
俺のおむつは常に替えられていたし、飛び散らかした汚物も掃除がされてはいた。
食事に風呂に排泄にと、俺は日常のすべてに介添えを必要とする有様だ。
それも、ヘルパーの来ない日には嫁がひとりで文句を垂れながらやってくれている。

口は悪いが、息子には過ぎたくらいの出来た嫁だ。
稀に意識明瞭で彼女に接するとき、俺は何度心から礼を述べようと思ったかわからない。
無論言うわけにはゆかぬから、俺は常に曖昧に狂っているふりをする。
愚かな矜持だ。痴呆を発してよりこのかた、俺は恥じ入る材料に事欠かない。

しかしただ恥じるだけでなく、埒もない空想が頭を占めることもある。
嫁の若い頃、連れられてはじめてこの家にやってきた時のことを今は思い返している。
あの時ほど不思議だったことはない。
男の子というやつは本当に母親似の女性を連れてくるものなのだ。
都合のよい話かもしれないが、ひと目見てこの人が息子の伴侶たる確かな直感があった。
そんなに顔が似ていたかと問われれば、それほどでもなかったろう。
だのに彼女の面影は、妻の在りし頃そのものだった。

妻。俺の細君。記憶のなかの君は法外に若く、幼い。
年若くして先立ってしまった君を、俺は今までどれほど惜しんだことか。
幼馴染の君を、よく俺はいじめて泣かしていたものだった。
俺たちは地方の農家のいとこ同士で、見合いというほどのものもなかった。
まして、今の人のような恋愛をしたわけもなかった。
それでも君は待っていてくれた。戦地からも、君を思えばこそ帰ってこれた。
子供のような年頃で立派に醜の御盾となった戦友に、忸怩たるものを思わぬではない。
しかし御国を故郷を、ひいては君を護るために俺は死ねなかった。

だが、俺は長く生き過ぎたのだろう。この身では自裁すらままならない。
かあさん。きえ。――いや、きえちゃん。
俺はもうすっかり駄目になってしまったよ。

せめて死後は、君のもとへ行くことができるだろうか。

家のなかが一段とにぎやかになる。だれか小さな娘でも連れてきたようだ。
孫たちはみな独り立ちしていたと思ったが、或いはかれらの子なのかもしれない。
親しく嬉しげな声が聞こえてくるのは、今の俺にとっても数少ない幸せだ。
俺のような者を抱えておりながら家族が陰に篭らぬのは、心の救いだ。

俺の頭はやはり老いていて、都合の悪いようなことばかりを忘れている。
思うに季絵がいるのは天国だ。善良な彼女は耶蘇教徒だったから。
他方で俺は、生きるために鬼にもなったではないか。一緒におれようはずもない。

空が青い。外では秋なのだ。
だれかが這入ってきた気配もわからなかったが、雨戸が開け放たれていた。
穏やかな昼の光が布団から出ている俺の手にもさしかけられて、くすぐったいような温もりが感じられる。
それが不意にはっきりした温かさに変わる。子供に手を握らせているのだろう。
俺はかろうじて握り返す。幼く、柔らかな手だ。

俺は白日の明るみを嫌った。痴呆して訳がわからない時にも、本能的にそのようだった。
清明な意識の下では、その惨めさに耐えられなかった。
常日頃閉ざされていた雨戸はそれゆえである。

無論、訪れてきた子供にこの惨状を見られるならば、恥ずべくもない。
幼い子にはこうしたものを見せるのがよい、と思う。

俺の意識はまた混濁を強めてきたようだ。
昔日の季絵の声が聞こえてくる。子供の声に俺は彼女を重ねている。
ごく稚ない頃の季絵は泣き虫のくせに蓮っ葉で、大人びた面差しも見せる、なにより笑顔の美しい子であった。
丁度目の前のこの子のように。
やはりこの子は俺と季絵の血縁だろう。

「ねえ、ゆうちゃん。ちょっと。寝ぼけてないで、お返事しなさいよ!」
「いやお義母さん、おじいちゃんボケてるから。寝ぼけてるんじゃないですから」
子供と嫁の光枝とがこんな奇妙な会話をしているのも、俺が夢うつつだからだろうか。
俺はたわむれに問い返してみた。きえちゃんか、と。
「あはっ。ほら、みつえさん。やっぱりこの人ちゃんとわかってるじゃない。――うん。そう。季絵だよ。あなたのおよめさんの季絵だよ、ゆうちゃんっ」

なるほど。そうであるなら、ようやくとお迎えが来たのだろう。
宗派やら浄土天国と地獄の振り分けやらは、存外いいかげんなものなのかもしれぬ。
俺の枕元にはだれかが用紙とボールペンを用意している。これも珍なる光景だが、死神かなにかか。ならば良し。
俺は晴れやかな気分で、促されるままに署名をした。

少しのあいだ眠ったようだ。
目が醒めると俺の頭のなかの濁りは消えていた。
念のためにここはあの世かと訊いてみるが、周囲の者たちに笑われた。

居間にはもうこたつが出されており、熱い茶が淹れられていた。昔から季絵の好物だった芋羊羹もある。
嫁。会社を早退してきたという息子。孫たち。弟夫婦。
遠めの親戚やら御近所やら、いろいろな人々がひっきりなしに訪れている。
そして、俺の痩せた膝には季絵がいる。
たまげた、と言うよりない。
「あたしも驚いた。死後生き返るって、それはクリスチャンですからね。そういうの信じてはいたけれど。でもまさかこんなことになるだなんてね?」
とくいげな表情で俺を見上げている。

あの世在庫一層大復活キャンペーン! 盆と正月とお彼岸とついでに福音みたいなものもつけちゃいます!
市役所から来た役人の置いていったチラシには、役所ならざる軽薄さでもってそう書いてあった。
俺は久しく使っていなかった老眼鏡をかけ、書類に目を通し、今は<元御遺族のかたへ>と記された冊子を眺めている。
要は天国だか地獄だか、そこから生まれ変わることなく、前倒しで死者が戻ってくるというのだ。それも子供の姿で。
左様に世の中は様変わりしていた。復活通知のあった世帯には季絵のような者がちらほらと出ていた。このひと月ほどのことだという。
政府は神か悪魔と契約でもしたのだろうともっぱらの話であった。

複雑怪奇な申請書類を出すだけで死人が戻ってくる。
瀕死の疾病や痴呆の家族も治り、期限付きながら死人を迎えることに足る生命が手に入る。
この突然の政府施策に、一部の野党はこれこそ格差の発生にして露骨な選挙対策であるとして依然猛反対をしている。
海外からは強力に技術移転を求める圧力。日本への移住者の激増。
少子高齢化問題の最終解決です。我が国はまさに文字通り、神の国なのです――。
そのように不遜なことも放送では言っている。
いったいこれから、世の中はどうなってしまうのだろう。

だが。
「ゆうちゃん、苦労をかけたね」
幼い声でそう言われてしまったら、俺も相好を崩すより仕方がないではないか。

  • 最終更新:2009-08-30 23:07:38

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